6月17日(月)に常磐線牛久駅に集合し、「牛久沼かっぱの小径コース」散策と「牛久シャトー」を見学しました。東京駅の人身事故の影響で電車が遅れて11時出発となりました。
参加者は、3期石黒さん、5期田中(宏)さん、6期甲斐さん・辻川さん(途中合流)、阪女OG鈴木さん、9期木谷さん、13期小松崎さん、18期芝田さん・佐野の9名でした。
牛久駅で待っている間、牛久シャトーの手作り顔出しパネルで写真を撮ったり、防犯カメラの上に巣作りしたツバメの子育てを眺めたりしていました。
牛久シャトーの手作り顔出しパネル
防犯カメラの上のツバメの巣
牛久駅から国道6号に出てすぐに旧水戸街道に入ります。ここは、江戸時代には水戸街道
の牛久宿の通りです。宿場町の町並みは全く見当たりませんが、映画「超高速!参勤交代」や鬼平犯科帳「雲竜剣」の舞台となっています。古刹「瑞雲山正源寺」や明治天皇が女化が原で行われた砲兵実弾演習の天覧の際の宿舎とされた旧家飯島家にわずかに当時の面影を見ることができます。
曹洞宗「瑞雲山正源寺」
明治天皇行在所之碑と旧家飯島家
牛久城大手門跡の看板辺りから城中町に入ります。看板の先の「河童」で知られる近代日本画壇の巨匠、小川芋銭の墓がある得月院に立ち寄りました。「絵を売って芋が買えるほどの銭になればいい」と願い、芋銭と名乗ったそうです。
得月院小川芋銭の墓
牛久城は1550年頃、後北条氏方の岡見氏が築城し、後北条氏滅亡後、豊臣方の由良氏が城主となりましたが、1623年に廃城となりました。深い空堀や草原の城跡に当時に思いを馳せてみました。城跡を抜けると沼沿いに木道が整備され、牛久沼の景色が楽しめます。牛久沼の由来は、食っちゃ寝の小坊主がある日、牛になり、それを嘆いて沼に身を投げたことから「牛食う沼」と呼ばれ、牛久沼になったそうです。(笑)道すがら湖沼池の違いの議論になり、調べてみると湖は最深部5m以上、沼は水深5m未満、池は湖沼より小さく人工的にできたものとのことでした。しかし、湖沼については、当てはまらないものもあり、「河童がいるのが沼」という説もありました。牛久沼の河童伝説からしてこの説もありかと思います。
牛久城址の看板
木道から見た牛久沼
牛久沼沿いから高度差20mの急坂を登り、小説「橋のない川」で知られる住井すゑの文学館、小川芋銭のアトリエ兼居室の雲魚亭はいずれも休館のため、写真を撮っただけで「河童の碑」に急ぎました。
牛久市住井すゑ文学館
小川芋銭の雲魚亭
「河童の碑」のある林に囲まれた涼しい休憩所のベンチで各自昼食を取りました。観光客もおらず、我々9名だけです。昼食後、18期芝田さんはフルート、阪女OGの鈴木さんはオカリナを奏でました。周りの林と共鳴した素敵な演奏会でした。
「河童の碑」から水田の脇の道を歩き、牛久市観光あやめ園に向かいました。手入れが悪いせいか、ちらほらとしかあやめの花が咲いておらず、かっぱの像が寂しげでした。ボランティアによる「あやめの復活プロジェクト」が必要だと発破をかけられました。
あやめ園から牛久駅までひたすらロードです。皆さん、お疲れモードです。やっと駅に着いたら午後3時前でした。ここまでで「牛久沼かっぱの小径コース」は約8km完歩となります。
ここで終わろうとの意見も出ましたが、せっかくなので牛久シャトーまで足を延ばして見学してきました。浅草の神谷バーを開いた神谷傳兵衛が、輸入ワインにハチミツや漢方薬を混ぜた甘味ワインを販売し、大人気を博しました。しかし、それに満足せず、国内で本格的なワイン醸造を行いたいと婿養子をフランスへワイン留学させ、国内ブドウ栽培適地として牛久に120haの敷地に農場と醸造場を日本で初めて建設したしたのが「牛久シャトー」です。現在は、醸造しておらず、本館と記念館、レストランの建物が国の重要文化財となっています。また、甲州市と共同でワイン文化遺産として日本遺産に認定されています。
牛久駅に戻り、牛久駅に隣接した居酒屋「はなの舞」で16時~18時前まで恒例の打上げを行いました。世代は違っても同じOUWVで青春を過ごした仲間として語らい、何杯もグラスを開けて大いに盛り上がりました。タイムサービスでハイボールとサワーが低価格で非常に安くあがりました。(すみません、盛り上がりすぎて写真を撮るのを忘れました)皆さま、長時間にわたり、お疲れさまでした。
最後に恒例の鈴木さんの言葉スケッチです。
夏燕駅構内もものとせず
ギョシギョギョシよしきり忙し葦の原
ブオ-ンブオ牛久沼なる牛蛙
本丸も草地になりて夏の月
空堀に積み積もりたり竹落ち葉
緑陰やフルートの音のさらさらと
目を細む早苗田わたる風緑
河童像遠き目をして夏の星
これやこの電気ブランよ合歓の花 (有名な浅草神谷バーの電気ブランは 牛久シャトーの創始者神谷傳兵衛の作品なのでした)